『在りどころ』
ライブ映像、ダンス・パフォーマンス
2016年
制作:木村絵理子
出演:荻原のぞみ 川瀬雅 木村絵理子 渡部早紀
人は、誰もが自分の身体を持っている。
ギャラリーの壁に掛けてあるモニターには、ひとりのダンサーの身体が映し出されている。
彼女は自分の手で自分の顔や肩に触れ、手と手を重ね合わせ、カメラの前を横切り、止まる。
フレームの中で様々な動きを展開し、一瞬、フレームの外へ消えたかと思えば、動きながら再びフレームの中へと戻ってくる。
モニターから目を離して隣の部屋へ入ると、そこでは4 人のダンサーが、身体を捻り、床を転がり、互いの、あるいは自らの身体を支えながら、絶え間なく動き続けている。
彼女たちは、4 人でひとりのダンサーを演じているのだ。
この4 人のダンサーの前には1 台のビデオカメラが据え置かれている。
カメラから伸びるケーブルは、ギャラリーの壁のモニターと繋がっており、ダンサーはこのカメラの小さな液晶画面を、視界の端に見ながら動いている。
ギャラリーのモニターで流れている映像は、録画されたものではなく、その時実際に動いているダンサーをとらえたものなのだ。
ダンサーの身体は、カメラのフレームの中から外へと出ると、とくに大きく広がりを見せる。
他者の身体から影響を受け、ときに反発し、共鳴して動く。
しかし、そうして次々と展開される動きの中で、ダンサーはその身体を制御することに集中し、自分の身体を動かしているのは何であったかを忘れてしまう。
それは紛れもなく、自分自身だというのに。
私たちの身体は、自分で選ぶことができないという点で、 生まれながらにして自分のものではない。
しかし、私たちの意識は常にその身体のもとにある。
自分自身とは、肉体としての身体そのものであると同時に、それを引き受けている意識でもあるのだ。
ダンサーはカメラのフレームを通して、互いの、あるいは自分の身体の動きを確かめている。
しかし、ここでダンサーが確かめているのは、身体の動き、ただそれだけではない。
自分の身体の部位のひとつひとつ、その形、温度。 積み上げられてきた思考、記憶という過去……。
カメラの前に立つとき、ダンサーは、自分自身が今ここにいるということを確かめているのだ。
そして、自分自身が今ここで踊っているのだ、という事実は、喜びというエネルギーとなって、余すところなくダンサーの全身を満たすのだ。
東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻
修士課程修了制作展「Media Practice 15-16」にて上演