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記事『三国志 王異伝』

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記事『三国志 王異伝』-1
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制作ノート
本文

<主旨>

 王異とは歴史書『三国志』に登場する女傑である〈*1〉。一般的にはあまり知られた人物では無いかもしれないが、男ばかりの三国志の戦いにおいて、王異は女性でありながら夫である趙昂《ちょうこう》を助けて自ら戦場へ立ち、稀代《きだい》の猛将である馬超との戦いに赴《おもむ》いている。果たして、彼女はいかなる信念を持ち、いかなる方法で強大な敵と戦ったのだろうか。


<時代背景>

 中国の後漢末(西暦2世紀末頃)の時代、中国北西部に在る涼州では羌《きょう》族や氐《てい》族等の反乱が発生し、そのまま紛争状態に陥っていた。その中でも韓遂《かんすい》と馬騰《ばとう》の勢力が台頭し、時に和解し、時に離反しては、争いを続けていた。一方、元々、中国全土を支配していた漢王朝は、現在では曹操《そうそう》の支配下に入っており、中原や河北と云った中国大陸の主要な部分はすでに曹操が治めていた。とは云え、曹操は建安十三年(西暦208年)に南方の赤壁にて劉備《りゅうび》あるいは孫権と劉備の連合軍に大敗しており〈*2〉、それまで順調だった中華統一への道に翳《かげ》りが生まれ始めていた。とは云え、この頃、馬騰が入朝して朝廷に帰順しており、西方の調略に関しては順調であるかのように見える〈*3〉。

 しかし、建安十六年(211年)、馬騰の代わりに西涼の領土を治めていた息子の馬超が、現地に留まっていた韓遂と合従《がっしょう》(連合)し、さらに、楊秋、李堪《りかん》、成宜《せいぎ》らとあい結んで進軍。潼関《どうかん》へ至り、曹操軍と激闘を繰り広げたが、結局、敗退した。

 とは云え、馬超は未だに健在であり、西涼の地にて再起を目論《もくろ》んだ。馬超は後漢の名将である馬援の子孫であり、一説によると、馬超は、曹操が西の地へ渡ろうとした際に、韓遂に曰《いわ》く、

「渭北《いほく》において成宜がこれを拒めば、二十日と経たずして、河東(曹操が支配する東方の土地)の穀物が尽き、彼は必ず撤退するはずだ」

 しかし、韓遂曰く、

「その策を聴き入れて渡る事を命令すれば、河の中にて進退窮《きわ》まってしまう。顧《かえり》みる事は快ならず〈*4〉」

 こうして、馬超の計は却下されてしまったが、実際には極めて効果的な計略だったらしく、後に、曹操がその策を聞いて曰く、

「馬兒《ばじ》(馬の小僧。馬超の事)が死なねば、吾《われ》には葬《とむら》われる土地も無い」

 と、嘆じたと云われる。

 さて、馬超は潼関の戦いの後、敗走したが、諸々の戎《じゅう》族に保護された。曹操は追撃して安定郡へ至ったが、北方にて有事が起こったので軍を退く事にした。そこで、涼州刺史の参軍である楊阜《ようふ》と云う者が曹操に曰く、

「馬超には[古の勇将である]韓信《かんしん》や黥布《げいふ》の勇が有り、羌族や胡族の心を甚《はなは》だ得ております。もし[曹公の]大軍が還れば、その[馬超に対する]備えは厳ならず、隴上《ろうじょう》の諸郡は[馬超によって奪取されてしまい]国家の所有物では無くなってしまいます」

 果たして、曹操軍の撤退後、馬超は諸々の戎族を率いて隴上の郡県を攻撃し始めた。一方、隴上の郡県は皆これを迎え撃った。この時、隴上側の武将として戦場に立ったのが楊阜や趙昂と云った者らであったのだが、その中に趙昂の妻である王異の姿も在ったと云う訳だ。


<王異の伝記>

一:女としての誇りを守るために自害を望む
 趙昂の妻である異は元益州刺史にして天水の趙偉璋の妻であった王氏の女である〈*5〉。かつて、趙昂が羌族の道令(長官)となった時、王異は西の地へ留まっていたのだが、ある時、同郡の梁双と云う者が反乱を起こして集結し、西の城を攻めて撃ち破った。その際に、王異の二人の息子が害されてしまった。王異には英と云う六歳の娘が居り、英は王異と共に一人で城の中へ居た。王異は二人の息子がすでに死んだのを見て、再び異変に襲われる事を恐れ、刀を引いて自害したいと思ったが、英を顧《かえり》みて嘆じて曰く、

「自害して汝《なんじ》を捨てれば、まさに[この子は]誰を恃《たの》みとするや。吾《われ》は聞いている。[絶世の美女と謳《うた》われた]西施ですら不潔な服を着れば人は鼻をつまむと。いわんや、我が風貌は西施では無いではないか」

 かくして、王異は糞や黒く染めた麻を被った。[そうやって汚れた身なりをする事で男に襲われる事を防いだ上で城から脱出したが]わずかな食糧しか無いので、王異は見るからに痩せてしまった〈*6〉。そして、季節が春から冬に至った頃、梁双と州郡とは和睦《わぼく》したので、王異はついに難を免れた。趙昂は官吏を送って王異らを迎えようとしたが、双方の居場所が三十里に至らなくなった所で、王異は英に謂《い》いて曰く、

「婦人は符信(通行の証明書)を持って従者に守られていなければ宮中の小門を出ないものだ。[その教え通りに、かの]昭姜は沈み流され、伯姫は[我が身を]焼かれるを待った。吾はその節義ある行いを読む毎に心を熱くした〈*7〉。それなのに、吾は乱に遭っても[昭姜や伯姫のように]婦人としての役目を全うするために死ぬ事が出来なかった。何の面目が有って[冥府にて]彼女らと顔を合わせる事ができよう。ここに至るまでに生きる事を盗んで死を選ばなかったのは、ただ、汝を憐れんだからだ。今、官舎はすでに近い。[ここまで来れば、もはや、汝の身は安泰だろう。だから、最初の望み通り]吾は汝を去らせて死のう」

 こうして、王異はついに毒薬を飲んで意識を失った。しかし、ちょうど良い具合に解毒薬と良い湯が有ったので、云葉で呼び掛けられる事で活を入れられ、毒を濯《すす》がれると、久しい時が経った後に蘇《よみがえ》った〈*8〉。

 かように、王異は女性としての覚悟をもって生き、我が子のためならば、あえて生き恥と壮絶な困苦とを背負い、そして、誇りを守るためならば死を選ぶ事すら出来る烈女であった。


二:馬超の侵攻に対して自ら武装して戦場へ立つ
 さて、時は流れ、建安年間、王異の夫である趙昂は參軍事に転じ、冀《き》の地へ転じて滞在した。そこへ馬超が集団を率いて攻撃してきた。馬超は先の潼関の戦いによる敗戦からの捲土重来《けんどちょうらい》を期し、そのために西涼の地を奪取しに来たようだ。その馬超による侵攻に対して、王異は自ら布製の腕袋を身に付けて(つまり、狩猟の装備をして)夫の守備を助けた。また、ことごとく佩環《はいかん》(輪の形をした玉、つまり、宝石)を取り外し、書状を以《も》って戦士を賞した〈*9〉。つまり、王異は自ら将軍として戦場へ立ち、麾下の将兵に対して褒賞すら行っていた訳だ。この一時を以ってしても、彼女は単なる一婦人では無く、女将軍と呼べる程の女傑であった事が伺《うかが》える。

 しかし、馬超の攻撃が厳しくなるに及んで、城中では飢餓に苦しめられるようになった。刺史である韋康《いこう》はもとより仁の人であり、官民が無惨に傷付けられるのを憐《あわ》れみ、[これ以上戦争を続けて彼らを苦しめないために]馬超に降伏して和睦する事を望んだ。趙昂はそれを諫《いさ》めたが聞き届けられなかった。帰ってこの事を王異に話すと、王異曰く、

「主君に対して臣下が諫争《かんそう》する事については、大夫(有力な家臣)の側に専利の義(独断する正義)が存在します。どうして[馬超の侵攻に抵抗している間に]關隴《かんろう》(関中と隴西。王異らが守っている西方の土地)へ救援が来ない事が分かるのですか。[今は]まさに共に兵士を勉励して勲功を高くする事で節義を全うして死ぬべき時であり[つまり、死力を尽くして抗戦すべき時であり、馬超に降伏して]従うべき時ではありません」

 こうして、王異は趙昂と共に引き返したが、韋康はすでに馬超と和睦していた。馬超は約定に反して韋康を殺してしまい、また、趙昂をおびやかして自分の許へ留め、その嫡子《ちゃくし》である趙月を南鄭《てい》の地へ置いて人質にしてしまった。(馬超は)趙昂を自分のために役立たせる事が必要だと考えたが、趙昂の本心は未だにはなはだ信用できない状態だった。


三:調略によって夫の身を守り、敵将の破滅を導く
 そんな時、馬超の妻である楊《よう》氏が王異の節義ある行いを聞き、終日、王異と酒盛りをしつつ語り合った。王異は馬超に対して夫である趙昂を信じさせる事で謀略を成し遂げる事を望み、そのために楊氏に請いて曰く、

「昔、[斉《せい》の国の名宰相と謳《うた》われた]管仲《かんちゅう》は斉へ入る事で諸侯を九合する(斉の国を天下の覇者とする)功績を打ち立て、また、由余は秦の国に仕える事で[秦の]穆公《ぼくこう》に覇業を為さしめました。現在、地方は社稷《しゃしょく》(国家)が定まったばかりですから、それを治められるか、それとも、乱れてしまうかは、[優れた]人を得る事に掛かっております。涼州(我らの国)の士馬はすなわち共に中夏の鋒《ほう》を争うべきであり、それについて詳《つまび》らかでは無い事が有ってはなりません(つまり、中原争覇の事に関わらない事が有ってはなりません)」

 こうして、王異は本心では無い事を楊氏に吹き込み、それによって馬超を喜ばせて信用されようとした訳だろう。案の定、楊氏は王異の云葉に深く感じ入り、それによって王異が自分に忠実だと思い込み、ついには、王異と重ねて付き合い結ばれた。趙昂が馬超から信用されて禍《わざわい》を免れた功績は、全く王異の力によるものだった。

 後に、趙昂は楊阜《ようふ》らと謀略を編んで馬超を討つ段に及んだのだが、それを王異に告白して曰く、

「吾の謀《はかりごと》はこのようなものだ。事は必ず万全だ。[しかし、人質になっている息子の]趙月はどうするか」

 すると、王異は厳しく荒々しい声で応じて曰く、

「忠義を我が身において立て、君父の大いなる恥を雪《そそ》ぐ事は、それが喪《も》の始まりになったとしても取るに足らず、重ねてやり遂げるべき事です。いわんや、一人の子供をや。項託《こうたく》や顏淵《がんえん》(孔子の弟子。どちらも孔子から見て我が子のような立場)がどうして百年も生きましょうや。義を貴ぶ事が在るのみ!〈*10〉」

 かくして、ついに、趙昂らは城門を閉ざして馬超を放逐したが、馬超は漢中へ奔《はし》り、[漢中を治めていた]張魯《ちょうろ》に従う事で兵を得て、[逆襲のために]帰還してきた。一方、王異は再び趙昂と共に祁山《きざん》を守護した。馬超がこれを包囲してきたが、三十日して救援の兵が到来すると包囲が解かれた。馬超はついに王異の息子である趙月を殺してしまった。人質を殺したと云う事は相手を支配する事を完全に諦《あきら》めたと云う事だろう。その後、馬超は南方にて勢力を拡大しようとしていた劉備に帰順し、かつてのように独立して覇を競う立場では無くなった。

 こうして、辛い犠牲を払いつつも、王異らは涼州から馬超軍の脅威を消し去った。およそ冀城の難から祁山の戦《いくさ》に至るまで、趙昂が繰り出した九つの奇計には、王異が常に参画していたと伝えられている。


<結論>

 王異は我が心に女としての誇りを堂々と打ち立て、それに殉《じゅん》じようとする程に烈々たる心根を有していた。世の人々は、ともすれば、家の外へ出て戦う事だけが勇ましく誇らしい事だと錯覚しがちかもしれないが、王異の生き様はそれが過ちであり、家を守る事もまた戦いであり、また、女性の生き方とは優しさや柔らかさのみを美徳とするものでは無い事を如実《にょじつ》に示しているかのようだ。王異は夫の成した奇計にことごとく関わったようだが、その内助こそが己の功名心によって知恵を絞った訳では無い事の証明になるとも云える。王異の深遠なる知性と猛然たる勇気とが侵略者である馬超の足元を突き崩し、ついには、その敗北と衰亡とを導《みちび》いたと云えるが、その才気と徳性とは煌々《こうこう》と渙発《かんぱつ》されたものでは無く、内側に昭々と満たされたものだったと云えるだろう。「聖人は褐《かつ》(粗末な服)を着ているが、懐《ふところ》には玉(宝石)を抱いている」と云う教えは、彼女のような玄妙なる知性を宿した烈女にも当てはまるのではないだろうか。[了]

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