注:
〈*1〉正確には『三国志』魏書・楊阜伝の注に引く皇甫謐《こうほひつ》『列女伝』であるが、便宜上、本文では三国志の女傑と表現した。
〈*2〉『三国志』魏書・武帝紀では、曹操が赤壁にて戦った相手は劉備となっており、不利になった上に疫病が大いに流行ったせいで撤退したとある。とは云え、一般的には孫権と劉備の連合軍が曹操軍を撃ち破った事になっているようなので、本文では両方の説を併記した。
〈*3〉馬騰が入朝した年は建安十年とされているが、十五年とも、十三年とも云われているので、本文では時期を確定させなかった。
〈*4〉原文は「遂曰:可聽令渡,蹙於河中,顧不快耶」。今回の訳では「馬超の策に従って迎撃しようとすると、味方の軍隊は途中で河を渡る事になるので、その途中で敵軍から攻撃を受けたらどうするのか。その策は考慮するに及ばぬ」と云う意味だと解した。『孫子』行軍篇では河を渡っている最中の軍隊はその半ばが渡り終えた所を討つのが有効だとされている。
〈*5〉『三国志』魏書・楊阜伝の注に引く『魏略』によると、趙昂の字《あざな》は偉章であるとの記述が有るので、趙偉璋と同一人物だとする説も有る。しかし、今回は別人として訳した。
〈*6〉原文には王異が城から脱出した記述が無いが、女性が戦乱に巻き込まれた際に体に糞を付けて汚い身なりをするのは逃走を意図しての事だと見なせるだろう。これは主に敵兵に襲われて性的な暴行を受ける事を避け易くするための処置だと思われる。また、後の記述を見れば、王異がその場から離れた事は間違い無いだろう。
〈*7〉昭姜と伯姫については劉向著『烈女伝』巻四にて記されている。昭姜は楚の昭王の夫人であり、王は出遊する際に昭姜をしばし高台の上へ留めて去ったのだが、その間に河が氾濫して昭姜の居る台が洪水に呑まれそうになった。そこへ昭姜を救うための使者がやってきたのだが、使者が符(外出の許可書だろう)を持ってくるのを忘れてしまったので、昭姜は女の義を貫いてその場を動かず、ついに洪水に呑まれて亡くなってしまった。また、伯姫は夜の火災に巻き込まれ、左右の者が火を避けてくださいと云ったが、伯姫は「婦人之義,保傅不俱,夜不下堂,待保傅來也(婦人の義とは傅り役を伴《ともな》い、彼らから守られていなければ、夜に堂から降りぬもの。傅り役が来るのを待ちます)」と述べ、重ねて火を避けるよう求められても「越義求生,不如守義而死(義を犯して生を求める事は、義を守って死ぬ事に如《し》かず)」と述べ、ついに、火に捕らわれて亡くなってしまった。一方、王異は我が娘を守るためにあえて守るべき場所から離れ、符を持たず、傅り役も連れずに身を隠していたが、それは王異自身からすれば家を守る女として許されざる極めて恥知らずな行いだと感じていたので、娘の安全が確保されると、死すべき時に死んで節義を全うしようとしたと見なせるだろう。
〈*8〉原文は「遂飲毒藥而絕。時適有解毒藥良湯,撅口灌之,良乆迺蘇」。「撅《けつ》」は「集める」と読むが、中国語では「活を入れる、大声で呼び覚ます」との意味が有るようなので、ここでは「大声で呼び掛けつつ毒を濯いだ」と解した。
〈*9〉原文は「異躬著布韝,佐昂守備,又悉脫所佩環、黼黻以賞戰士」。韝《ゆごて》は鷹を腕に止まらせる際に使用する腕袋の事なので、狩猟用の戦うに相応《ふさわ》しい装《よそお》いをしたと解した。後半の記述には二通りの解釈の余地が有る。一つ目の解釈は、黼黻《ほふつ》を刺繍《ししゅう》と解して、自分が所有していた佩環を手放し、また、黼黻入りの立派な衣服を持ち出して、それらを戦士への褒賞にしたとする。二つ目の解釈は、黼黻を文章と解し、佩環、つまり、戦うために不要な女物の飾りを全て外し、将軍として麾下《きか》の戦士の功績に対して感状によって酬《むく》いたとする。佩環を褒賞としたのであれば、わざわざ脱したと記さず、佩環と黼黻とで戦士を賞したと書けば良く、また、直近の文脈と照らし合わせると、戦闘用の武装をするために女物の飾りを全て外したと解するのが自然とも考えられるので、今回の記事では後者の意味だと推定した。
なお、全体の記述を見れば分かる通り、王異は相当な博識らしく、書に親しんでいた事はおそらく間違い無いので、自らの云葉で立派な感状を作る事は充分に可能だっただろう。また、王異のような節義や忠義を非常に重んじる烈々たる女性が、功績の有った戦士に対して女物の宝石や衣服によって酬《むく》いようとするのは、いささか無神経に思われ、また、戦士の誇りを満足させるにしては即物的に感じられ、王異の性情にそぐわないようにも思える。むしろ、経済的な利益は全く無いが、至誠によって感謝の意を書状によって具体的に伝える方が、戦士らの義侠心《ぎきょうしん》を満足させる事が出来ると考えるのではないだろうか。とは云え、以上の意見は全くの私見であり根拠の無い事なので、今回の訳はあくまでも推定とし、適切な解釈が有れば変更の余地が有るとする。
〈*10〉原文は「忠義立於身,雪君父之大恥,喪元不足爲重,況一子哉? 夫項託、顏淵,豈復百年,貴義存耳」。「喪元不足爲重」の部分が難解。今回の訳では、喪の始まり、つまり、自分が死んでしまうきっかけになろうとも取るに足らず重ねて為す、と解した。
主要参考文献:
陳寿著、裴松之注『三国志』(维基文库)
劉向著『烈女伝』(维基文库)
渡辺精一著『三国志人物鑑定辞典』(Gakken、1998年)
蜂屋邦夫訳注『老子』(岩波文庫、2008年)
村山孚訳『孫子・呉子 中国の思想10』(徳間書店、一九九六年)
使用画像元:
『万里の長城8』acworks(ID:23027)【写真AC】
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