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ファッション リペア&リメイク

瀧澤由香子

🙋‍♂️#私はこんな仕事がしたい!
将来は新潟と東京との2拠点生活への実現に向けて様々な経験や人とのつながりを広げていきたいです。 業務としては、リペアをしながら大切に長く愛着を持てるものづくりと、痛んだ部分を修理するだけではなく、新たな価値を持たせたリメイク業務を今後もさらに様々なアイデアを生み出せるようになりたいです。また新たなカテゴリとして、B品やデッドストックをアップサイクルしていくような、マイナスの要素からプラスの価値を持ったものづくりをしたいです。
東京都

新潟県出身 高校卒業後、文化服装学院に進学。オートクチュール専攻を卒業。 フォーマルウエア会社でデザイナーパタンナーとして、主にヤングレディスカテゴリのデザインと、最後1年間はフォーマルアクセサリーのデザインなどを担当。 その後、ストリートカジュアル系のアパレル会社で、ヤングレディスカテゴリのパタンナーを担当。家族の病気をきっかけに帰郷する。 地元の縫製工場で縫製と工場のパタンナーを担当。量産の工場ならではの縫製技術も学び経験しながら、量産にしやすいパターンに修正を加える業務をメインに行なってきた。 しかし製造部門を海外へ移す会社が増えてきたことの影響もあり、突然会社が無くなってしまった。倒産と言わず会社整理と言われたが事実上の倒産となってしまった。 突然のことで、準備も何もしていなかったので、3ヶ月間地元のITソフトウエア企業で、ハローワークの支援事業の一環で、基本的なPCスキルと起業マナーや情報セキュリティについて学びながら就職活動をしていたところ、すでに地元で何度か開催され、認知度が上がってきていた「大地の芸術祭」の運営事務局の募集があり、アパレルを志望していたが、なかなか希望する条件に合う会社が見つからなかったので、異業種へのチャレンジとなったが、応募し採用されることとなった。 美術館のミュージアムショップの運営をしながら、そこで販売する商品や、芸術祭本番のメイングッズとなる、公式ロゴグッズ、それぞれのアーティストごとのグッズなどの開発も担当し、初めてプロダクトデザインに関わることとなった。 その間にECサイトも開設し、運営も担当した。まだまだ芸術祭の認知度も3年ごとのイメージが強かったため、通年でイベントや美術館も運営し、いつきても楽しめるということをPRするため、毎年入館者数が減る冬の間、都内のルミネを巡回し、PR販売を行い、その担当責任者として長期出張も頑張ってきた。 9年間初めての経験からのスタートで頑張ってきたものの、都内を巡回している時に、次第にアパレル業への復帰を望むようになり、40代という年齢的にも厳しい状況でも、新たな夢の実現に向かうため上京。 銀座の100年を超える老舗の紳士服店付属の縫製教室でメンズビスポークテーラーを学び、そのお店に就職を望んで訓練を頑張ってきたものの、女性への差別がひどく、夢の前に望むような仕事をさせてもらえないことを知り、テーラーの道を諦め、他での就職を探し始める。 ちょうど、コロナ禍に差し掛かってきた時期。 次々とアパレルの求人が突然取り下げが激しくなり、2ヶ月間で連続20社応募選考からはずれ、緊急事態宣言の中、スーパーのアルバイトをしながら、細々と就職活動を続けていたとき、募集も出していない、でも、学生の頃からちょっと気になるファッションブランドの会社2社に、履歴書と手紙を送ってみたところ、見事に1社、現在の会社に採用され今に至っている。 しかし、入社当初から疑問に思っていた仕事のやり方や、ものづくりの姿勢に対して合わせていくことがキツく感じている。

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🙋‍♂️#私はこんな仕事がしたい!
将来は新潟と東京との2拠点生活への実現に向けて様々な経験や人とのつながりを広げていきたいです。 業務としては、リペアをしながら大切に長く愛着を持てるものづくりと、痛んだ部分を修理するだけではなく、新たな価値を持たせたリメイク業務を今後もさらに様々なアイデアを生み出せるようになりたいです。また新たなカテゴリとして、B品やデッドストックをアップサイクルしていくような、マイナスの要素からプラスの価値を持ったものづくりをしたいです。
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新潟県出身 高校卒業後、文化服装学院に進学。オートクチュール専攻を卒業。 フォーマルウエア会社でデザイナーパタンナーとして、主にヤングレディスカテゴリのデザインと、最後1年間はフォーマルアクセサリーのデザインなどを担当。 その後、ストリートカジュアル系のアパレル会社で、ヤングレディスカテゴリのパタンナーを担当。家族の病気をきっかけに帰郷する。 地元の縫製工場で縫製と工場のパタンナーを担当。量産の工場ならではの縫製技術も学び経験しながら、量産にしやすいパターンに修正を加える業務をメインに行なってきた。 しかし製造部門を海外へ移す会社が増えてきたことの影響もあり、突然会社が無くなってしまった。倒産と言わず会社整理と言われたが事実上の倒産となってしまった。 突然のことで、準備も何もしていなかったので、3ヶ月間地元のITソフトウエア企業で、ハローワークの支援事業の一環で、基本的なPCスキルと起業マナーや情報セキュリティについて学びながら就職活動をしていたところ、すでに地元で何度か開催され、認知度が上がってきていた「大地の芸術祭」の運営事務局の募集があり、アパレルを志望していたが、なかなか希望する条件に合う会社が見つからなかったので、異業種へのチャレンジとなったが、応募し採用されることとなった。 美術館のミュージアムショップの運営をしながら、そこで販売する商品や、芸術祭本番のメイングッズとなる、公式ロゴグッズ、それぞれのアーティストごとのグッズなどの開発も担当し、初めてプロダクトデザインに関わることとなった。 その間にECサイトも開設し、運営も担当した。まだまだ芸術祭の認知度も3年ごとのイメージが強かったため、通年でイベントや美術館も運営し、いつきても楽しめるということをPRするため、毎年入館者数が減る冬の間、都内のルミネを巡回し、PR販売を行い、その担当責任者として長期出張も頑張ってきた。 9年間初めての経験からのスタートで頑張ってきたものの、都内を巡回している時に、次第にアパレル業への復帰を望むようになり、40代という年齢的にも厳しい状況でも、新たな夢の実現に向かうため上京。 銀座の100年を超える老舗の紳士服店付属の縫製教室でメンズビスポークテーラーを学び、そのお店に就職を望んで訓練を頑張ってきたものの、女性への差別がひどく、夢の前に望むような仕事をさせてもらえないことを知り、テーラーの道を諦め、他での就職を探し始める。 ちょうど、コロナ禍に差し掛かってきた時期。 次々とアパレルの求人が突然取り下げが激しくなり、2ヶ月間で連続20社応募選考からはずれ、緊急事態宣言の中、スーパーのアルバイトをしながら、細々と就職活動を続けていたとき、募集も出していない、でも、学生の頃からちょっと気になるファッションブランドの会社2社に、履歴書と手紙を送ってみたところ、見事に1社、現在の会社に採用され今に至っている。 しかし、入社当初から疑問に思っていた仕事のやり方や、ものづくりの姿勢に対して合わせていくことがキツく感じている。